その頃、同じ病室に入院してきた方がよく独り言をゆうので怖いと、母はゆってました。 誰もいないのに、誰かに話しかけてると。 『ああいう風には絶対になりたくない』と。 そして、お医者様から、退院のお話が出ていました。 後は通院で行きましょうと。 わたしは喜び、けれど母は帰っても何も出来ないのが怖くて、それを伸ばし伸ばしにしていました。 7月の上旬、深夜に病院から電話がありました。 母の病状が変わったので来てくださいと。 わたしは、恋人(現だんな様)と一緒に病院へ向かいました。 到着し、看護婦さんにお話を伺うと、 『独り言をしゃべるようになってしまったので、 観察室(ナースセンターの隣)に移ってもらいました』とのこと。 観察室に入り、母のベッドのカーテンを開けると、眼を大きく開けた母が横になっていました。 『どした、大丈夫??』と聞くと、母はしゃべりました。 『怖い、誰かいる』誰もいないから大丈夫だよとゆうと、はぁ…とため息をつき、あまり聞き取れない小さな声で、 『ほらね、こうなるのが嫌だったのよ』とつぶやきました。 次の日、恋人と相談し、母に『やすこ結婚するから』といいました。 母はもうあまり喋れなくなった口で、恋人に『よろしくお願いします』といいました。 前から母はわたしの結婚を気にしてました。 『早く孫の顔見せてよ』とゆわれてました。 わたしだって花嫁姿も見てもらいたいよ。 孫の顔だって見せたいよ。 それから一週間、わたしは毎日通いました。 母はだんだん意識が薄くなり、けれどわたしはいろんなこと母に話しました。 朝から夕方までいました。 一週間のち、先生からお話を伺えるとゆうことで、夜病院に行きました。 先生の言葉は、『今夜が峠』とのことでした。 その日はずっとついててもいいとゆわれたので、わたしは母のそばから離れませんでした。 何日も泊り込みになるかもと思い、恋人に必要なものを買ってきてもらい、恋人も1時くらいまで一緒にいてくれました。 いとこも、夜なのに来てくれたりしました。 わたしはずっと起きて、そばで母を見て、話しかけたりしました。 看護婦さんの感じで、なんとなく明日のことがわかっていました。 次の日の朝、母と近い親戚に電話しました。 幸い土曜日だったためみんなお休みで、来てくれるとのことでした。 恋人も、何かあったらすぐに行くからとゆってくれました。 みんな来てくれた所で、わたしは病室を出て売店や喫煙所など行ってました。 そして病室に戻ると、看護婦さんが、『血圧がだんだん下がってきたから、娘さん、ついててあげて』と教えてくれました。 すぐに恋人に電話し、そしてずっと母の手を握っていました。 だんだん血圧、心拍数が減ってきたとき、意識のない母の目には涙が流れてました。 『そのとき』はあっとゆうまでした。 泣きやめないわたしに、看護婦さんが、『お母さんね、毎日娘さんが来てくれるって、すごい喜んでたよ。娘さんも、すごい頑張ったじゃない。お母さんもすごい頑張ったじゃない』とゆってくれました。 違う、わたし最後のほうは全然来なかったよ。 自分が何て最低だったのだろうと思いました。 祖母があまり喋らなくなってしまったのも、毎日行かなくなってから。 母の容態が変わったのも、毎日行かなくなってから。 祖母のときにすごい後悔したくせに、同じこと繰り返してました。 その後、わたしは結婚しましたが、母親に孫の顔も花嫁姿も見せられないことは、たぶんこの先もずっと悔しいと思います。 見せようと思えば見せられたのに。 けれど、産んで育てて愛してくれた母親のためにも、わたしは幸せになりたいし、幸せだとずっと思ってると思います。 少しの後悔とともに。。。 |
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